紀元300年中期第15代応神天皇の御代に猪名津彦命(いなつひこのみこと)を中国の呉の国に遣わし機織裁縫の工匠の招致を懇願しました。時の交官、久礼波(くれは)、久礼志(くれし)の二人を案内役として呉の国に趣き、呉の王に嘆願して呉服(くれはとり)、綾織(あやはとり)、兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)の四人を伴い渡来する事になりました。その中の弟媛は摂津の国、武庫(むこ)の浦に上陸して猪名(いな)の港(今の唐船ヶ渕)に機殿(はたどの)を建て呉服媛(くれはとりのひめ)と綾織媛(おやはとりひめ)を迎えました。呉服(くれはとり)の神女は一時も惜しむ事なく不眠不休で機織に専念したと云い伝えられて居ります。この時より機織裁縫の技術が我が国に伝授され男女、身分差別の服装が定められました。仁徳天皇の代になり呉服(くれはとり)の神女は御令百三十九才にてお隠れになり、その御遺体をその跡が残る梅室、姫室に納められました。翌年仁徳天皇が勅令を似て御神祠を建立致しました。又、この呉服(くれはとり)の神女は糸をさまざまに染分した工場を染殿井(そめどのい)と名付け又その糸を掛け晒し、その使用した松の木絹掛松と称しその跡は現在も残っております。その後代々の帝(みかど)は更に崇敬篤く、丹融天皇の御代には鎮守府将軍源満仲公が片桐且元を奉行に命じて再建し文政二年には有栖川宮殿下の御祈願所となりました。因みに呉服(くれは)大明神の御名は後醍醐天皇より賜りし御宸翰(しんかん)から起因して以後我が国の絹布の衣類のすべてを呉服(ごふく)と称する事となりました。この日本最初の機織裁縫の師である呉服大神(くれはとりのおおみかみ)をお祀りして居る呉服神社(くれはじんじゃ)は大阪府池田市駅前に壮麗な社殿で鎮座しております。私はこの歴史的な貴重な日本文化である機織裁縫の道を教授してくれた祖神である呉服大神をこよなく崇敬し服飾の業に従事し、その産物を取扱う文化人として呉服の名称を後世に伝承する事を確信いたしました。いみじくも平成十一年十一月石巻あけぼのの地に新社屋を開設するに当り呉服(くれは)の大神にあやかり、株式会社曙サカブン”呉服館(くれはかん)”と命名設立いたしました。現在多くの呉服ファンよりご高評を戴きまして今年十五年目を迎えております。